沖縄5.15平和行進

突然のことでした

5月12日 PM12時20分頃、5月13日に沖縄行きのはずの梅ちゃんのお父さんが亡くなって、沖縄行きの

とりやめの電話が青年部長に入る。昼飯を食べてすぐだった。

青年部長(ぐつっあん)の顔がひきつっている、いつも喋らないぐつっあんがいつもの3倍位の速さで、周りの青

年部の連中に事情を話してたのんでいる。だが明日の朝8時00分発のジェット機に乗れと言われては、うん

とゆう奴も出てこない。私には無関係の話だ!

なんとか全港湾境港支部の面目を立てたい青年部長、困っているようだ、そのうち青年部より上の連中に話を

持ってきた。

私の前に来たぐつっあんは、白羽の矢を突き立てた様な顔でふてきな笑みをうかべながら話しかけてきた。

5分位話したろうか、沖縄の良いことばかり言ってくる。

だが内容は平和行進だ、あのうわさで聞く炎天下を1日30k歩くとゆう地獄の行軍だ、聞いてみると最初の日が

20k、二日目が見学、学習会で三日目がまた歩き7,5k歩くそうだ、だが明日の8時出発とはあんまりだ。

私はのる気がしなかった。(延べ日数5日間)

私は16日名和町の健康マラソンに出るので、もう2500円払ってゼッケンナンバーももらっていた,行く気はない。

沖縄行くぞ

ぐつっあんのねたは切れ、最後に言った。毎晩泡盛飲み放題だで!!ぐさっ←(°°;)−(ヤバイ一言)

私はことのほか泡盛は大好物である。おもわずよし!行くぞと言ってしまった。歩くことが頭から消えていた。

 

かくして私は、梅ちゃんの名前で沖縄泡盛飲み放題ツアーに出発することになったのだ。

残念なのは、名和のマラソンでうちの陸上部の部長、会長に、私のすばらしい走りを見せられないことである。

5月13日朝8時発 米子空港から羽田まで小さいジェット機に乗り旅立った。           途中気流が乱れた所があり翼がはばたいて、エアーポケットに落ち、エンジン音が高くなったり低くなったりしていた。初めて乗ったが、ここちよいゆりかごのようだ。   着地がひどかった恐ろしいくらい左右にバウンドしたへたくその運転手だタイヤがもしれるかと思った!(帰りは強風の為またゆれた)

羽田で乗り継ぎ、今度はデカイジェット機に乗った。なんとほとんど揺れないのだ、沖縄に着きかけると、低空飛行で海に着水するのではないかと思うくらい低く飛びながら、スムーズな着地。思わずナイスランディングと言った。米軍基地との契約で民間機は島の周りは300m以下で飛ぶように取り決めがあるらしい。

沖縄空港に着き沖縄地本の青年部のむかえで県立武道館アリーナに向かう。

地本と書いてチホンと読みます(地方本部の略です。)地元とは違います宜しく。

全国団結式なんと、この人の多いこと2000人はいるだろうか、日本中の組合とゆう組合がひしめき合って座ってる。旗はたハタ1時間程で団結がんばろー

地本の3単産結団式会場に行こうとしたら突然のスコール、バケツをひっくり返した様な雨だ少し足止めをくらった。

15分位降ったろうか雨はやみ気温30度、湿度90パーセントの蒸し風呂だ明日も朝から雨らしい。

地本の休憩所で3単産結団式を1時間程で終わり、団結ガンバローで締め、ホテルに向かう、暑い!!

 

ホテルに着き部屋割りだ、わたしは舞鶴の武田くんと同室だ。7階の14号室

部屋に入り二人とも放心状態で座ってる。「武田くん7時晩御飯だったよな」「はい」、時計を見ると7時5分になっていた。二人はあわてて食堂に向かった、皆私たちがくるのを待っていた、もうしわけなかった。 

その夜泡盛をたらふくと地元の料理をいただいてから、郷土料理店に行きゴウヤチャンプル、ミミガー、熱帯魚のから揚げ、海ぶどう、などいただき、またまた泡盛を沢山いただいて眠りにつきました。

今回沖縄でおせわになった、泡盛さんたちである。メインに久米仙の30度をいただきました。

ここにあるのは右から久米仙25度,古酒35度、古酒30度、一番沖縄で人気NO、1が左のVIP菊之露8年物30度です。皆さんもどこかで見かけたらぜひ買って飲んでみてください、あまりの美味しさに感動します。ちなみに私は久米仙25度が一番リーズナブルで好きです。

 

いよいよ行進

 5月14朝8時30分(雨) かっぱが配られ那覇市役所前ひめゆりの塔めざして行進が始まりました。

今日は雨なので、デジカメを持ってこなかった。

シュプレキコールいきます〜 米軍は沖縄から出て行け〜 普天間基地の県内移設反対〜 戦争は嫌いだ〜などなど

自分でかってにわけのわからない事を言って、途中でやめさせられる人までいる。沿道の人が皆同じように手を振ってくれる。

糸満市役所まで14k、ほとんど街中の行進でした13時30分到着腰が痛くて座れない、14時10分再びスタート

昼からはほとんどが畑の中だ民家が少ない。

サトウキビ畑の真ん中を1000人ぐらいの人数で行進した。
パパイヤ、は民家一軒に一本有りました。ドラゴンフルーツ、マンゴー、島バナナあたりまえのように庭先に植えられてました。まだ春とゆうのに、もうなってるんです。常夏の島って感じです。

 

おばあが泣いてる

民家の間に80歳くらいのおばあが立っている。よく見るとどのおばあも泣いている、60年前水も無く食う物もない所を、米軍の

(一坪に50発打ち込まれたとゆう)爆弾をかいくぐり最後にはガマ(洞窟)ににげこみ日本兵には虐待され、どんな思いがして生き延びたのだろう。後で沖縄戦の写真を見たが木一本立っていなかった。

わたしは広島、長崎、東京大空襲の事はよく子供のころから聞かされていた。広島の原爆が一番よく聞く、3回程広島の平和リレーも参加して走ったが沖縄戦の事はほとんど知らなかった。

沖縄戦の悲惨さまではここにくるまで知らなかった、行進して初めて知った。先導車に沖縄の70歳くらいのおばあ(元先生)が乗って拡声器で戦争当時の話を聞かせてくれた。悲惨な戦争、それからだシュプレキコール戦争反対の声が大きくなったような気がした。

所々で沖縄の人たちが、お茶やあめを用意してくれていてありがたかった。脱水症状になって倒れる人もなかった。

ひめゆりの塔に着いた、今日は中には入りませんでした。

ひめゆりの塔200余名の学徒の遺影が展示してありました。

沖縄戦では1998名の学徒が戦死したそうです。

日本海の仲間たち

 

沖縄地本に行き今日は集会、歓迎会です。前後しますが5月15日の夕方

全港湾日本海右から新潟波多野君、直江津山崎君、七尾大沢君、?,舞鶴武田君、

新潟佐久間君あと写ってないけど敦賀藤田君、伏木山本君、カメラ境港大田またまた

泡盛です10杯はいただきました。あと熱帯魚のおさしみとバーベキユーでごちそうになりました。沖縄の地本のかたにはお世話になりました。

 

北海道から来られてる小堀さん夫妻お父ちゃんとは渓流釣りと、山菜採りの話で盛り上がりました。

それと写真には出てませんが全港湾大阪支部の山本さん一番仲良しでした。

 

なぎらけんいち似のよーたんぼ、後で聞いたら全港湾本部の書記長松本耕三さんでした。とても気さくないい兄貴とゆう感じのいい万年青年です。最終日は一緒に歩きました。同室の武田くんも兄貴のようにつばえていました。

耕三さんは三日間続けて、歩かれたそうです。

 

沖縄視察

5月15日沖縄視察8時45分浦添埠頭見学、キヤンプキンザー沖のさんご礁を埋めて軍港を作る計画があるらしい。

これが出来れば、原子力空母入れる港が出来るそうだ、市議会、県議会、国会で阻止せねば!!

ますます沖縄がアメリカの前線基地と化してしまうでないか、阻止せねば!!

いまはさんご礁の海が広がっている。漁師が三人潜ってなにか採っている。

さんご礁の先まで500m位あろうか広大なさんご礁である。守らねば!!

チビチリガマ視察

ここも沖縄の人々が逃げ込んだ有名なガマの一つです。

ガマの中に川が流れ、がまの途中で川が切れている所からチビチリガマと言うそうです。二人の老人(おじい、おばあ)がお供え物をたくさん広げて拝んでいました。

楚辺通信所

象の檻と呼ばれるアンテナ施設です。東南アジア全域を傍受できるそうです。

あれ?どっかでみた!境港市にも同じものがある!

美保通信所

空の色さえ違うが、ここも象の檻と呼ばれている。

まわりがコンクリートの壁に囲まれたアンテナ施設だ沖縄に負けない大きさがある。

エリアからすると韓国、北朝鮮、中国の傍受を担当しているんだろう。

嘉手納基地

沖縄戦で上陸してすぐ建設された飛行場です。60年も前から居座っています。

今では滑走路が2本通り、基地司令部、兵舎、通信施設、家族住宅、病院等があるほか、幼稚園、小・中・高校、図書館、野球場、ゴルフ場、映画館、カミサリー(スーパーマーケットのようなもの)、ボーリング場等の教養娯楽施設も完備されているほか、9,000人以上の家族が生活しています。コンクリートの高い壁に囲まれ高い所じゃないと中は見えません。

ひめゆりの塔

日本本土での沖縄最大の悲しみの中心、これがひめゆり学徒隊の亡くなった所です。沖縄戦の際に沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒達で編成された従軍看護隊がひめゆり学徒隊と呼ばれていました。

 

 

 ここに部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をついていたそうです。6月18日、突如軍より解散命令が下されて。この後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれさぞ苦しく無念であったと思います、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずかであったそうです。「ひめゆりの塔」は、この壕の上に建てられています。壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、現在の私たちの生活の中では考え、想像もつきません。 どうか安らかにお眠りください。

平和記念公園

平和祈念堂です。天気にも恵まれ綺麗な写真が撮れました。写真は無いですが、平和の礎(いしじ)記念碑。 第2次世界大戦、亡くなられた方の名前が彫られています。 沖縄県民、旧日本軍、アメリカ軍、韓国、台湾、北朝鮮、中国、などあいうえお順に並んでました。中には親族が載せたくないと消してあるものもありました。戦後60年もたった今でも献花が絶えません。平和記念資料館の中は戦時中のジオラマの展示がありました。

普天間基地包囲行動当日

16日浦添市役所から普天間基地抗議行動に向け行進

全部で3つの部隊がいるが、私が参加した部隊は南の部隊で一番大きく1400人の部隊でした。シュプレキコールいきます〜 米軍は沖縄から出て行け〜 普天間基地の県内移設反対〜 戦争は嫌いだ〜 普天間基地を返せ〜 米軍はイラクから撤退せよ〜 自衛隊はイラクから撤退せよ〜

森山公園に着いて昼飯です。全部の部隊が集結しました。普天間基地の隣、フェンスの向こうには米兵がいます。

普天間基地包囲行動、県民参加で人の鎖がつながったと連絡が入り、14時00分抗議行動スタート、米軍は沖縄から出て行け〜 普天間基地の県内移設反対〜 戦争は嫌いだ〜 普天間基地を返せ〜 ウエーブ人の波が次々と流れる。なんと本土の人間とオキナワンチュとの一体感、私の横にも普天間に住むおじいが手をつないだ、1時間で抗議行動は終わりを告げた。後で気がつきましたが、普天間の周りの民家はコンクリートの家ばかりでした。

戦いの終わり

最後の行進です!宜野湾海浜公園野外劇場まで、1,6k公園に入る6車線ある道路を前面封鎖しスクラム組んで

ジグザグ行進、右翼が来てます「パフォーマンスにだまされるな!」「おんどりゃたたっ殺すぞ」前には機動隊が右

と左にかまえています。40年ちかく前の全学連、赤軍派を思いだします。門をくぐったところでゴール沖縄での私

戦いは終わりを告げました。

宜野湾海浜公園野外劇場4000人の全国の組合、個人参加の人ビトすごい熱気です。
舞台では地元の有名なエイサー踊りの楽団が踊っています。海外にもよくコンサートで行かれるそうです。これでもかってくらいすごく迫力のある踊りです。生まれて初めて本物のエイサーを見ました。
県庁、市からねぎらいのお言葉、これからの沖縄についてお話があり。最後に三日間交通整理にあたった、レインボウの皆がステージに上がって、ごくろーさま〜の大合唱と来年も5.15平和行進を団結してがんばろーで幕を閉じました。
公園の出口でシーサーが見送ってくれました。さっき全員で行進してゴールした時も、このシーサーは見ていたんでしょうね。また来るからね沖縄の守り神シーサー

沖縄最後の夜

最後の日全員で平和行進が済んで、感想を一人一人のべてくれとの事。一番多かったのは一体感、達成感、満足感、でも聞きのがせなかった事は、まだ沖縄は戦争が終わってないって事。おばあの涙の中には心の戦争が延々と続いてる。沖縄本島に締める米軍の施設の占める面積の割合18.8%在日米軍施設のおいては74.7%を占める。沖縄の現状まだ沖縄は戦争の中にあるように思った。この写真は沖縄地本の青年部の人たちである。たいへんおせわになりました。このあと沖縄の青年部に連れられ、夜の沖縄へ〜
沖縄の夜です。沖縄青年部長一人、副部長2人、宴会部長に連れられ沖縄の夜に消えた全港湾の人々でした。

さよなら沖縄

とうとう沖縄から帰る当日となりました。

朝8時にチェックアウトしてゆいレール乗り、首里城まで30分。一緒に降りた一家にどこに行かれますと聞いたら首里城までとのこと、では一緒にタクシーで行きますか。とゆうことで割り勘で、大阪の門真市のかたでした。袖すりあうもなにかの縁ですか!!話はそれますが、一押しの飲み物が沖縄に有ります。それはシークァーサーとゆう飲み物です沖縄のコンビニで売ってありました。現地しか売ってありません。帰ってから美味しさに気がつきました。ああまたシークァーサーが飲みたい!!

「すいませ〜ん一枚とってくれませんか」、と声をかけられた。「それでは私も撮ってください」とたのみ「あ〜デジカメとったことない〜」とのこと三回失敗してやっと写りました。この写真です。なかなか人との出会いは楽しいもの。次は牧志公設市場へいざゆかん。公設市場に着きました。ぶたの顔がお出迎えです。ここはお肉やさんだらけ、次は魚屋さん熱帯魚のオンパレード。さざえの20cmもあるものマングローブの下に住むとゆう渡りガニ腕を折りたたんでも30cmもあるばけもんである。山陰では見たことも無い。そのあと飛行場に行きました。

ただいま〜境港

帰りは羽田から東ヨーロッパの20歳位の女の子ととなりどうしになり、折り紙を教えたり、日本語を教えたりしながら帰ってきました。袖すり合うも何かの縁ですか?とうとう帰ってきました私の沖縄の戦いも幕です。でも忘れないでください、まだ沖縄には平和がまだもどって来て無いことを、あのおばあの涙を・・・・・・・・